算命学とは

算命学は、陰陽思想や五行思想など、古代東洋に由来する考え方を土台に、人間の宿命・環境・運の流れを構造的に捉える運命学です。

裏街道では、単に未来を当てるための占いではなく、人生に起こる現象を俯瞰し、自分自身の思考を広げ、どのように生きるかを考えるための思考体系として扱います。

第1章 なぜ算命学なのか

私は、自分自身や人生を俯瞰するという目的に到達できるのであれば、必ずしも算命学だけが正しいとは考えていません。

四柱推命でも、手相でも、他の占術でも構いません。

あるいは、哲学や宗教、心理学など、占いとは異なる体系であっても、自分自身や人生を見る視点を育てることができるのであれば、それぞれに価値があると思っています。

では、なぜ私はその中から算命学を選んだのか。

理由の一つは、人間や運命について考えるための構造が、非常に整理されているからです。

ここでいう「整理されている」とは、古典的に正統であるとか、伝統的な東洋占術として最も正しいという意味ではありません。

むしろ、古典占術の正統性や伝統的な解釈を重視する立場から見れば、算命学の使い方はかなり亜流に見えるかもしれません。

私が評価しているのは、

人間や運命について考えるための思考モデルとして、非常に見通しが良い

という点です。

人間

家庭

社会

環境

時間

空間

役割

宿命

エネルギー

こうしたものを別々の問題として切り離すのではなく、それぞれの関係を一つの構造として組み立てながら考えていくことができます。

算命学は数学そのものではありません。

しかし、陰陽・五行・干支・方位・時間などを一定の関係性として配置し、そこから順序を追って考えを展開できるという意味では、非常に構造的に理解しやすい体系でもあります。

運命という、本来は目に見えず、曖昧になりやすい問題を、感覚だけではなく構造として言葉にすることができる。

私はそこに、算命学の大きな魅力を感じています。

高尾義政氏が残した「構造」

私が現在の算命学に強く惹かれているもう一つの理由は、高尾義政氏によって体系化されたその構造にあります。

私は現在の算命学を、

古代東洋に存在した陰陽・五行・干支などの思想や技術を背景としながら、高尾義政氏によって人間と運命を考えるための体系として再整理・再構築されたもの

として捉えています。

高尾義政氏には、一般的な論理だけでは説明しきれない、霊的・感覚的な世界認識があったと私は考えています。

そして高尾氏の大きな仕事の一つは、受け継いだ占術を単なる技法として扱うのではなく、その背後にある原理を考え、思想部門として構造化したことにあると私は見ています。

人間

自然

家庭

社会

環境

時間

空間

役割

宿命

エネルギー


こうしたものを一つの構造として結び付け、占術と思想の双方から運命を考えられる体系へ整理した。

私は、そこに大きな価値を感じています。

私自身にも、目に見える現象だけではなく、その背景にある構造を感覚的に捉えようとする性質があります。

その意味でも、高尾義政氏が整理した算命学の構造は、私自身の感覚と非常に相性が良いのだと思います。

そして、もっと率直に言えば、

私自身が人に説明しやすい。

運命という大きな問題を、感覚だけではなく、構造として説明することができる。

それが、私が運命探求の土台として算命学を選んでいる大きな理由です。

思想部門と占術部門

算命学には、大きく分けて思想部門と占術部門があります。

私は、この二つが一つの体系の中に存在していることを、算命学の大きな特徴だと考えています。

思想部門では、

人間とは何か。

自然とは何か。

時間とは何か。

空間とは何か。

社会とは何か。

運命とは何か。

人間と環境はどのように関係しているのか。

といった根本的な問題を考えます。

そして、その思想や構造を現実の人間へ適用するために占術があります。

逆方向もあります。

占術を実際の人間へ適用し、現実の中である一定の現象が繰り返し確認されるのであれば、

「ここには何らかの法則性があるのではないか」

と考えることができます。

そこから、再び思想へ戻る。

つまり、

思想から現実へ。
現実から思想へ。

この往復ができる。

私は、この点を非常に重視しています。

技術だけを使って、

「当たった」

で終わるのでもありません。

思想だけを語って、

「世界とはこういうものだ」

で終わるのでもありません。

考えたことを現実へ照らし、現実で起きたことを再び考察する。

その地盤が、算命学には最初から用意されています。

私は、運命についても、人間の都合とは無関係に何らかの法則性が存在すると考えています。

その法則を人間が完全に知っているわけではありません。

だからこそ、観察し、考え、仮説を立て、現実と照らし合わせる。

算命学は、そのための一つの道具でもあります。

当たった・外れたで終わらせない

占術では、どうしても、

「当たった」

「外れた」

という結果が注目されます。

もちろん、占術である以上、現実との整合性は重要です。

しかし、裏街道では、そこで思考を止めません。

当たったのであれば、

なぜ、その判断が成立したのか。

どのような構造が働いていたのか。

外れたのであれば、

何を見落としていたのか。

環境なのか。

時間なのか。

本人の選択なのか。

それとも、こちらの解釈そのものに問題があったのか。

そこから、さらに考えます。

私が重視しているのは、単なる答え合わせではなく、そこから生まれる洞察です。

一つの現象を、

「良かった」

「悪かった」

「当たった」

「外れた」

だけで終わらせず、一段離れた場所から眺め、その背景に何があるのかを考える。

この習慣そのものが、人間の思考を広げる訓練になります。

だから私は、

算命学は答えを狭めるためではなく、問いを広げるためにも使える

と考えています。

人生の答えを与えるのではなく、
自分自身で考えるための視点を育てる。

第2章 算命学をどう使うのか

宿命には方向がある

算命学では、人間には生まれた時点ですでに、その人固有の宿命が与えられていると考えます。

ここでいう宿命とは、自分の意思だけで自由に変更することのできない、生まれ持った性質や構造です。

私は、これを理解するとき、一つのエネルギー的な構造としてイメージしています。

例えば、ある年月日時に一人の人間が生まれたとします。

その瞬間に、その人が持つ一定の性質や方向性が定まる。

それが宿命です。

ここでいう「エネルギー」は、物理学上のエネルギーそのものを意味するものではありません。

目には見えない宿命の構造を理解するための、一つのイメージとして考えてください。

簡単に言えば、

「あなたは、こちらの方向へ生きる人です」

という大きな方向性は、生まれた時点ですでに定まっているということです。

これは、

「将来は必ずこの職業に就く」

「必ずこの人と結婚する」

というような、出来事の一つひとつが固定されているという意味ではありません。

どのような性質を持っているのか。

どのような役割を担いやすいのか。

どのような環境で力を発揮しやすいのか。

何を通して自分自身を確立していくのか。

そうした、人間としての根本的な方向です。

そして、この宿命そのものは、生涯変わりません。

後から加わるのが環境

しかし、人間は宿命だけで生きているわけではありません。

生まれた後には、

両親。

兄弟姉妹。

友人。

学校。

仕事。

社会。

時代。

住む場所。

文化。

さまざまなものが、後天的な環境として加わっていきます。

ここでいう環境とは、単に周囲の人間だけを意味するものではありません。

人間関係も、家庭も、学校も、会社も、地域も、時代も含めた、その人を取り巻く一つの空間として捉えます。

つまり、人間は、

生まれ持った宿命という構造を持ちながら、後天的な環境という空間の中を生きていく

ことになります。

そして、この二つが接触することで、現実の人生が動き始めます。

宿命と環境が接触すると、運命が生まれる

生まれ持った宿命と、後天的な環境が接触すると、そこには必ず何らかの相互作用が生まれます。

私は、この状態を説明するとき、比喩として「摩擦」あるいは「摩擦エネルギー」という表現を使うことがあります。

ただし、これは物理学上の摩擦やエネルギーを意味しているわけではありません。

宿命と環境という二つの要素が接触し、互いに影響を及ぼし合うことで、そこに新しい動きが生まれる。

その構造を理解するための比喩です。

裏街道では、その相互作用から現実に展開していく人生の動きを、運命として捉えます。

つまり、

宿命 × 環境 → 運命

です。

宿命そのものは変わりません。

しかし、環境は変わります。

出会う人も変わります。

置かれる場所も変わります。

本人の選択も変わります。

そのため、

宿命は変えられなくても、運命は最初から固定されているわけではありません。

「摩擦」が悪いわけではない

ここで重要なのは、

宿命と環境の間に相互作用が生じること自体は、良いことでも悪いことでもない

ということです。

宿命に合った環境にいても、運命は生まれます。

宿命に合わない環境にいても、運命は生まれます。

宿命と環境が接触している以上、そこには常に何らかの現象が生じます。

問題になるのは、

その結果として展開している運命が、その人本来の宿命に沿っているかどうか

です。

宿命と環境の関係が比較的自然であれば、その人が持っている性質や役割は素直に発揮されやすくなります。

力を発揮しやすい。

無理が少ない。

自分らしく感じる。

物事が自然に流れやすい。

本人にとって幸福感を得やすい。

そうした状態につながります。

反対に、環境が宿命の方向と大きくずれていれば、そこで生まれる運命は本人にとって苦しいものになりやすくなります。

宿命と環境が合わないとき

例えば、非常に強い芸術的感性を持つ宿命の人がいたとします。

人とは違うものを感じる。

人とは違うものに価値を感じる。

人とは違う表現をする。

それが、その人にとって自然な状態なのかもしれません。

しかし、その性質を理解されず、

「普通でありなさい」

「みんなと同じようにしなさい」

という環境の中だけで育ったとしたらどうでしょう。

家族と意見が合わない。

友人とうまく馴染めない。

自分がおかしいのではないかと悩む。

本来とは異なる方向へ、無理に自分を合わせようとする。

そうした現象が起こることがあります。

これは、宿命と環境が接触したこと自体が悪いのではありません。

その環境との関係によって展開している運命が、その人本来の宿命から大きく外れている

ということです。

その状態が長く続けば、本来の自分を素直に受け入れにくくなったり、自分自身を信用できなくなったり、何が自然な自分なのか分からなくなることもあります。

その時点で本人が経験している現象だけを見れば、それは一つの凶と見ることができます。

そこで算命学を使う

算命学を使う目的の一つは、ここにあります。

今まで、

「なぜ自分だけうまくいかないのだろう」

と思っていたことを、

「そもそも、この環境は自分の宿命に合っているのだろうか」

と考え直す。

自分自身を責める前に、

仕事。

人間関係。

生活環境。

役割。

時間の使い方。

周囲との距離。

そうしたものと、自分の宿命との関係を見る。

宿命そのものを変えることはできません。

しかし、環境はある程度変えることができます。

仕事を変える。

人間関係を変える。

住む場所を変える。

役割を変える。

物事との距離を変える。

場合によっては、自分自身の考え方を見直す。

そうやって、

宿命が自然に働きやすい環境へ、自分から少しずつ合わせていく。

私は、これを算命学における一つの処世術の根幹だと考えています。

算命学は、未来を固定的に言い当てるためのものではありません。

変えることのできない宿命を知り、変えることのできる環境を考える。

その結果として、どのような運命を展開させていくのか。

そこには、人間が介入できる余地があります。

凶は、必ずしも人生全体の凶ではない

ただし、

「宿命に合わない環境は悪いから、すぐに取り除けばよい」

というほど単純な話でもありません。

なぜなら、ある時点での凶が、後の吉を作る材料になることがあるからです。

例えば、未成年の頃に、自分の宿命とは合わない環境で苦労した人がいたとします。

本人にとって、その経験は確かに苦しい。

その時点だけを見れば、凶と考えてよいでしょう。

しかし、その経験を通して、

自分は何が苦手なのか。

何を大切にしたいのか。

どのような環境では生きにくいのか。

自分は何者なのか。

何を選びたくないのか。

ということを学ぶ場合があります。

そして成人後、その経験を材料として自分に合った環境を選べるようになったのであれば、

過去の凶が、後の吉を生み出した

と見ることもできます。

だから裏街道では、

吉を吉だけで見ず、凶を凶だけで見ません。

ある一時点では凶であっても、長い人生全体の中で見れば、その出来事が次の吉を生み出していることがあります。

逆もあります。

その時点では非常に恵まれているように見える環境が、長い時間をかけて本人を宿命から遠ざけることもあり得ます。

重要なのは、

今この瞬間だけではなく、人生全体の流れの中で、その現象が何を生み出しているのかを見ること

です。

吉凶は、単純な善悪とは違います。

時間を長く取れば、吉が凶へ転じることもあり、凶が吉を生むこともあります。

だからこそ、目の前の出来事だけで人生を決めつけない視点が必要になります。

運命に翻弄されないために

人間は自由です。

しかし、何でも自由にできるわけではありません。

人間は、自分の身体だけで鳥のように空を飛ぶことはできません。

それでも人間は、自然や物理の法則を理解し、その法則を利用することで飛行機を作り、空を飛ぶことを実現しました。

自然法則を無視したのではありません。

むしろ、

法則に従い、その力を利用したからこそ実現できた

わけです。

私は、運命についても同じように考えています。

自由とは、法則が存在しないことではありません。

法則の中で、どのような選択が可能なのかを知ること。

好きに生きることはできます。

しかし、どのような生き方にも、それに応じた作用や反作用があります。

一晩眠らなければ、翌日に強い眠気が訪れる。

身体を酷使し続ければ、どこかで反動が出る。

これは、誰かが罰を与えているわけではありません。

そのような仕組みになっているだけです。

運命についても同じように、人間の目には見えにくいだけで、何らかの構造や法則性が存在しているのではないか。

裏街道では、そのように考えます。

そして、その構造を知ったうえで、環境を選び、自分の生き方を選ぶ。

それが、私の考える、

「運命に翻弄されない」

ということです。

苦労をなくすためではない

算命学を知らなくても、人間は人生経験を通して少しずつ自分自身を知っていきます。

失敗する。

遠回りする。

人と衝突する。

自分に向かない環境へ入り、苦しむ。

そこから、

「自分はこういう人間なのかもしれない」

と気づいていく。

それも、人間形成の一つの過程です。

だから私は、算命学を使って人生からすべての苦労を取り除こうとは考えていません。

むしろ、ある程度の失敗や苦労は、人間が自分自身を知るために必要なこともあります。

特に若いうちは、

「自分の宿命を知ったから、最短距離で願望を全部実現しよう」

という方向へ走る危険もあります。

それでは、算命学を自分の欲望を実現するためだけの道具にしてしまいます。

一方で、算命学には、望む生き方や目標の実現を考えるための技術という側面もあります。

私は、欲を持つこと自体を否定しているわけではありません。

高尾氏の考え方を、私は、強欲と無欲が突き詰めた先で近づくこともある、と捉えています。

たとえば、好物でも十分に食べて満足すれば、それ以上は欲しくなくなる。

欲を満たす経験を通して、自分にとって何が十分なのかを知ることもあります。

ただ、欲を消そうとすることも、「欲をなくしたい」という一つの欲になり得ます。

私にとっての無欲とは、何も受け取らないことではなく、与えられたものは受け取りながら、それを強く求め続けることには囚われない状態です。

大切なのは、欲を満たすことだけに終始せず、その経験を通して自分自身を知ることだと考えています。

私が目指しているのは、苦労を避けることではありません。

苦労の意味を考えられる人間になること。

失敗から何を学ぶのか。

なぜ自分はその環境で苦しんだのか。

その経験が後の人生に何を残したのか。

何が自分に必要だったのか。

そうしたことを考えながら、自分自身を確立していく。

算命学は、そのための補助線にもなります。

頭ではなく、心で修得する

算命学には、多くの知識があります。

さまざまな技法や理論があります。

それらを学ぶことも必要です。

しかし、知識を大量に暗記することだけが、算命学を学ぶことではありません。

占術の技法を知っていることと、算命学を理解していることは別です。

人を見るとき。

社会を見るとき。

自分自身を見るとき。

問題が起きたとき。

算命学の考え方をいちいち思い出さなくても、自然と複数の視点から物事を考えられるようになる。

頭で覚えた算命学が、自分自身のものの見方へ変わっていく。

私は、それを一つの意味で、

「心で算命学を修得する」

ということだと考えています。

宿命を変えるのではない。
宿命を知り、自分が生きる環境を考える。

第3章 算命学の歴史をどう捉えるか

現在の算命学をどう捉えるか

私は現在の算命学を、

古代東洋の陰陽・五行・干支・命術などを背景としながら、高尾義政氏によって独自に整理・構築・体系化された近現代の運命思想体系

として捉えています。

これは、算命学を学ぶすべての人が共有している見解ではありません。

古代から連綿と受け継がれてきた学問として算命学を捉える人もいるでしょう。

陰陽思想。

五行思想。

干支。

暦。


こうした思想や技術が古代中国に存在していたことと、

現在日本で「算命学」と呼ばれている体系そのものが、同じ形で古代から存在していたこと

は、別の問題です。

私が現在確認している範囲では、今日の算命学の体系そのものを記した古代中国の原典文献は確認できていません。

そのため裏街道では、

文献で確認できること。
伝承として語られていること。
そして私自身の解釈。

この三つを、できる限り分けて扱います。

私は高尾義政氏の体系を高く評価しています。

しかし、その体系を高く評価することと、そこに付随する歴史的説明をすべてそのまま事実として採用することは、別の問題だと考えています。

呉仁和氏から現在の算命学へ

現在の算命学がどのように成立したのかについては、いくつかの説明や証言があります。

高尾義政氏が若い頃に呉仁和氏から命術を学び、その後「中国占星術」と呼ばれる体系などを経ながら、算命学を発展させていったということが言われています。

また、その後も高尾氏自身によって研究や体系化が続けられ、現在知られている算命学へと発展していったとする証言もあります。

ただし、こうした細かな成立過程については、後世の関係者による証言や伝承に依る部分もあり、すべてを一次資料によって確認できているわけではありません。

そのため裏街道では、一つの成立史を確定的な事実として断言することは避けます。

私が重視しているのは、現在の算命学を、

古代中国から完成された形のまま伝承された体系というよりも、古代東洋の思想や命術を背景としながら、高尾義政氏自身の研究と体系化を経て現在の形へ発展してきたもの

として捉えることです。

本サイトにおける「原典」について

運命探求 裏街道では、高尾義政氏著『原典算命学大系』を、便宜上「原典」と呼びます。

これは、

「古代中国に算命学の原典文献が存在し、それを翻訳したもの」

という意味ではありません。

私が「原典」と言う場合、基本的には、現在の算命学の思想・理論を体系的に理解するための主要な基礎資料として、『原典算命学大系』を指しています。

裏街道および算命学大学では、この書物を大きな学びの土台としています。

歴史が古ければ正しいのか

私にとって、算命学が何千年前から存在したのか、あるいは近現代に体系化されたのかという問題は、算命学そのものの価値を決めるものではありません。

私は、

「古いから正しい」

とは考えていないからです。

仮に、現在の算命学の大部分が高尾義政氏によって整理・構築されたものであったとしても、

人間。

社会。

自然。

時間。

空間。

運命。

これほど大きな問題を、一つの思考構造として整理したこと自体が非常に興味深い。

重要なのは、

何千年前から存在したかではなく、

この構造を使うことで、人間と運命についてどこまで考えることができるのか。

私は、そこを見ています。

第4章 裏街道と算命学

占いは入口である

算命学は、私にとって非常に重要な道具です。

しかし、算命学そのものを信仰することが目的ではありません。

占いは、人間が自分自身や、目には見えない世界、形而上的な問いへ関心を持つための入口にもなります。

「今年の運勢を知りたい」

「恋愛がどうなるのか知りたい」

「仕事を辞めるべきか知りたい」

最初の入口は、それで構いません。

そこから、

なぜ自分はそう生きているのか。

運命とは何なのか。

人間はなぜ生きているのか。

という問いへ進むことができます。

入口は目的地ではありません。

裏街道では、算命学を一つの大きな土台としながら、その先にある「運命そのもの」を探究していきます。

そして最終的には、算命学という一つの体系にも囚われず、自分自身と世界をより大きな視点から見られるところまで進む。

それが、私が算命学を扱う理由です。

算命学の先へ

裏街道で扱いたいのは、占いの技術だけではありません。

人間とは何か。

社会とは何か。

自然とは何か。

精神とは何か。

運命とは何か。

そして、

人間はなぜ生きているのか。

算命学は、こうした問いを考えるための強力な道具です。

しかし、それですべてが説明できるとは考えていません。

だから裏街道では、算命学を中心的な土台としながらも、宗教・哲学、社会、自己感性など、必要に応じてさまざまな視点を往復します。

算命学を学ぶことそのものが最終目的なのではありません。

算命学を通して自分を知る。

環境を見る。

運命を考える。

そこからさらに、自分自身と世界を見る視点を広げていく。

占いから運命へ。
運命から人間へ。
人間から、その先へ。

裏街道は、その探究のための場所です。

算命学に触れる

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